うちの母は福島県相馬市出身
6人姉妹の下から2番目なのですが、1番上のお姉さん(私の叔母ですね)は、福島県の浪江町というところに住んでいました。
浪江町と言えば、放射能の値が高い場所で有名になってしまったところ。

震災後、原発から20km圏内という事で、退避地区になってしまった叔母の家。
地震のあった日に避難所に一日だけ避難し、その後は5人の妹の家を転々とし、比較的被害の少なかった相馬の実家に戻っていたので、震災以来、叔母は一度も自宅に戻れていませんでした。

先日、やっと自宅へ一時立入の許可が下りたのですが、何せ高齢な叔母なので、過酷な警戒区域に行かせられない!と立ちあがったのが、うちの母と一番下の叔母。
下っ端の妹二人が、一番上のお姉さんの代わりに、行く事にしたのです。
今、実家にいて、母からその時の話を聞いたので、ちょっと長くなりますが、ここに記しておこうと思います。

最初は、独り暮らしの叔母の代わりに行けるのは一人だけだとお役所に断られたのですが、「勝手が分からない人の家に行くのに、一人じゃ無理だ」と二人分の許可を何とか取り付け、二人で行ける事になったのでした。

テレビで見たような白い防護服を着るのかと思ったら、今はそうではなく、長袖、長ズボンを着て来るよう指示があったそうです。
集合場所は、南相馬市の馬事公苑

そこに長袖、長ズボンを着て集まった立入者達は、シャンプーハットのような帽子マスク手袋、不織布で出来たブーツのような靴カバーを渡され、身につけると出発。車内にもカバーがかけられています。
線量計トランシーバーを渡されて首にかけ、車内ではシーバーの使い方のテストをしました。
行く前にパンとペットボトルのが支給され、水に至っては、こまめに合計5本も支給されたそうです。
一人70cm×70cmの袋が渡され、それ1つ分だけの物を持ち帰って良い、とのことでした。

家の鍵を開ける時は、もう一枚上から支給された手袋をして開け、室内に入る前にその外の手袋を脱ぎ、室内に入る際には、もう一枚、支給された靴カバーをつけたそうです。

まず家に入って最初にする事は、ブレーカーを落とす事。
電気をつけたりして、ヒューズが飛んで火事が起きたりするのを防ぐためです。
酷暑の中、エアコンはおろか電気もない状態で、地震で物が散乱した家の中を、懐中電灯で照らしながら、叔母に頼まれた貴重品などを捜索したそうです。
制限時間は2時間
トランシーバーからは、時々「○○分経過です」と連絡が入ったそうです。
母と一番下の叔母は、洋服や靴など、まるで「詰め放題のバーゲン」のように袋に大量に詰めました。

そして、シーバーで作業が終わった旨を伝えると、家までバスが迎えに来てくれます。
母達以外はみんな顔見知りのご近所さん。
久々の再会の感激と、家に戻れた興奮からか、帰りのバスのテンションは異常に高かったそうです。

そして馬事公苑まで戻ると、母達の身体はもちろん、持ち帰った荷物の放射線のスクリーニング
詰め放題状態の洋服も、一枚、一枚伸ばして、すべてスクリーニングされました。

そして、すべて無事終わると、また最後にパンと水をもらって、父の車で相馬の家へ。
母達がたくさん持ち帰ってくれて、叔母は大喜びだったそうです。

叔母は結局、いつ帰れるか分からない浪江の家をあきらめて、来月から東京の老人ホームへ入る事になりました。
幸い、叔母は浪江の家のローンもなく、老人ホームの契約金も支払う事が出来ました。
でも、終の棲家としてバリアフリーに設計した浪江の家には10年しか住めず、今後、老人ホームでも毎月の入居費を数十万、払い続けなければなりません。

以前、叔母が原発の退避地区に家があるので、いつ帰れるか分からないんですよ、なんていう話を知人にしたら、とある人に、
「でも原発の近くの人は東京電力からずっとお金もらってたんでしょ」
と言われて、唖然として、何も言う気にはなりませんでした。。。

浪江町は20km圏内にありますが、東京電力からの恩恵は何もなく、自分達は東北電力を使用しているのに、首都圏に電気を送る東京電力の原発のために、今まで築き上げた財産も生活も、めちゃめちゃにされている被害者です。

それでも叔母はまだ恵まれている方。
その他のローンを抱えたまま家や仕事を奪われ、避難所暮らしを余儀なくされ、終わりの見えない放射能との闘いに暗澹たる思いをしている方々の事を考えると、心が痛んでなりません。

復興しよう!というやる気をそぐ、終わりの見えない原発の問題。
「原発さえなければ」と書き置きして、自殺してしまった相馬の酪農家のニュースは衝撃でした。
自然エネルギーへシフトして行く事を心から望みます。

母達が立入しているのを待っている間、父が相馬の街をビデオカメラでロケして来てくれていました。
その映像に映っていたのは、ほとんど流されてしまった親戚の旅館や、あちこちに散らばっている船や車。
大船渡へ炊き出しのお手伝いに行った時に、津波の爪痕をまざまざと見ましたが、自分が小さい頃度々遊びに行っていた、おじいちゃん、おばあちゃんのいた相馬の街の無残な姿に、改めて衝撃を受けました。

そんな相馬にサンプラザ中野くんさん達が昨日も慰問に行って下さいました。。。
ありがとうございます!!!

一日も早く、原発問題が収束しますように。。。。