先日、「相約北京(北京で会いましょう)」が、思い出もあり、いわくつきのイベントでもある、と書きましたが、その辺を何回かに分けて書いてみようかなぁ~と思います。
私の声が中国語に似合う、と周りから言われて、見よう見まねで中国語で歌っていた、2000年の冬。
原宿RUIDOに出演していた時、善老師が中国人俳優でオペラ歌手の程波先生を連れて来てくれました。
ライブが終わった後、楽屋に程波先生がいらして、その第一声が、
「君たち面白いですね!来年、北京でのイベントに出ませんか?」
!!!
メンバー一同驚くと同時に喜んで盛り上がりました。
「もちろん!出ます!!!」
これが、私達のアジアへの第一歩で、その2001年の北京のイベントというのが、まさに「相約北京(北京で会いましょう)」だったのです。
その後、話はどんどん広がり、北京でのイベント出演の後、欧米のアーティスト達と共に、昆明、南京、瀋陽、大連、天津の5都市を「欧亜風情演唱会」という名でツアーをする事になりました。
このツアーで三週間、どっぷり中国に漬かっていなければ、今でもアジアでの活動を続けていたか分からないと思うほど、中国の大きさ、仕事のやり方、などなど思い知らされたツアーでした。
最初は慣れない環境に不安で泣いていた私も、次第とお客さんの温かさに感激して泣き、最後には、一緒にツアーした異国の仲間たちと別れるのが寂しくて泣いていました。
その時の演出公司の担当者が、李さん。
ツアーでの共通語は英語だったので、ミスター・リー、ミスター・リー!とみんな呼んでいました。
ミスター・リーは、英語もほとんど話せないので、最初はすごく距離があったけど、各地をまわるうちに距離が縮まり、大連のオフの日には、一緒に卓球をやって遊んだりしました。
6都市間の飛行機やバスでの移動の時に、私達のためにアンプを梱包材に一生懸命くるんで運んでくれました。
最後に北京の空港では、別れの寂しさから号泣してしまい、そんな私達を見えなくなるまで手を振って送ってくれたのでした。
その後、私は中国語を勉強し、中国語でミスター・リーにメールを出し、北京に行く度に携帯で電話をかけたりして、連絡を取り合っていました。
2004年、久しぶりにミスター・リーからメールが来て、「相約北京」の一環である「朝陽流行音楽週」に出ない?と聞かれ、ちょうどその時期に重慶でコンサートの予定だったので、帰りに北京に寄って、出演する事にしました。
実は、その時に紹介してもらった演出公司の担当者が、今回声をかけてくれたタンさんなのです。
思えば、2001年から交流を温めてきたご縁の連鎖がずっと続いているのだなぁ~と思います。
(2001年 ミスター・リーと南京にて。「欧亜風情演唱会」を回ったドイツ、アメリカ、オーストラリアのアーティスト達と。)